top of page

第四章|新天地アメリカでのはじめての生活

Updated: Jul 6

短期大学(デイトナ州立大学)でプレーする塚田悠太郎選手



高校卒業後はアメリカ留学を決意した塚田悠太郎だったが、そこに思わぬ障害が立ちはだかる。2020年、世界を襲った新型コロナウイルス。塚田もまたその波に飲み込まれた一人であり、新型コロナウイルスの影響で渡米を予定より半年遅らせることになったのだ。「高校3年生は12月の選手権でサッカーが終わるんですけど、渡米を遅らせたことで約1年の空白の期間ができました。東京都の2部の社会人リーグに所属してサッカーをさせてもらいましたが、そもそもコロナで練習や試合も少なくてコンディションを整えるのはすごく難しかったです。コロナの時はみんなそうだったと思うんですけど、とてもストレスがかかった1年でした。」渡米を諦める気持ちはなかったかと聞くと「コロナの1年間も準備していましたし渡米をするという決断はすでにしていたので、いつかは行けるだろうという思いで過ごしていました」と答えた。先の見えない状況の中、塚田はアメリカ行きに向け本格的に英語の勉強を始め、大学入学に必須のTOEFLテストでも必要スコアを取得した。その後まだコロナの影響がある中、不安な気持ちを抱えながらも渡米するのだった。



Zero-Zeroのサポートの元、塚田はアメリカのフロリダ州にあるデイトナ州立大学を留学先に選択した。海沿いにある地域に根付いた中規模の短期大学だ。「假屋さんは場所選びも大切だと言っていて、最初から田舎だとすることもなく気分も上がらず、落ち込むこともあるということでこの場所を選びました。」Zero-Zeroのサポートは大学選びから英語での書類作成、大学からのオファーを募るための選手の売り込みなど多岐に渡る。「サッカー部の監督が假屋さんの知り合いだったので信頼して選択できました。結果的に最初は短大にして良かったと思います。短大だとサッカーレベルは少し落ちるんですけど早くから試合に出られる可能性が高いですし、勉強も四大ほど難しくないのでついていけました。アメリカでは文武両道がとても大切なので。」アメリカでは運動部に所属する学生のことを“Student-Athlete”と呼び、どんなにスポーツが上手くてもまずは学業ファーストで勉学に励まなければならない。「元々勉強が好きだったわけではないんですけど学業ができないとサッカーができないという環境だったので、そこに身を置いていることで学業の面は頑張れました。」アメリカでは実力が認められたStudent-Athleteへのサポートは手厚く、塚田の場合は学費も全額奨学金が支給され、チームメイトとのルームシェアだが住む場所の提供もあった。

アメリカでのトレーニングは日本とは打って変わって、短時間で集中して行うため自分に合っているように感じたという塚田。「生活リズムは朝の練習をしてランチを食べて、授業を受けて終了という感じでした。練習場が閉められてしまうので自主練もあまり出来ず…でも自分は練習量が減ったという焦りはなくて、気楽に捉えられていたので良かったです。」

午後の練習がなく高校とのギャップは大きかったが、短時間集中のスタイルは自分に合っていた。また、最初は日本人とのフィジカル面の違いも感じたという。「アメリカの大学リーグでプレーをしている選手達は単純に脚が長いので、抜けたと思ったボールでも脚が伸びてきて取られたりして、最初はそういった部分も意識してプレーしていました。」予想通りではあったがジャンプ力やスピードも日本人と大きく異なり、短大時代は欧米仕様のサッカーに少しずつ対応していった。



しかし短大のサッカーレベルはあまり高くなく、フラストレーションを溜めたことも。「スタメン以外の選手との練習はレベル差や強度の低さを感じました。サッカーに対する満足度はそこまで高くなかったと思います。だけど自分も1年目は6点しか決められてなくてあまり結果が出ていないんですよ。1年目は環境への適応とかチームメイトとの信頼関係構築とか、そういったことに対応していくのが大変でした。」慣れない土地での一年目はサッカー留学ならではの点での苦労も多かった。しかし振り返ると精神面での成長も大きくあったと塚田は語る。「アメリカに来るまではこんなマインドは持てていませんでした。高校の時は結構いろんなことを考えてストレスを溜めていましたし…でもアメリカではサッカーでも私生活でも毎日色々なことが起こっていちいち悩んでいたらキリがないので、あまり考えすぎず流れに任せて適応していきました。そうしていくうちに自分も変わっていって、心に負担がかからない過ごし方ができるように。環境を変えることが一番なのかもしれません。」慣れない生活に戸惑うこともあったが、“サッカーをする”という一貫した目的のため、ぶれずに自分のペースで順応していった塚田。こうして彼のアメリカでの新生活は始まったのだった。


何もかも初めての海外生活。短大時代のチームメイトは南米人が多く多国籍、塚田はそんな彼らを通して文化の違いも実感した。「チームメイトはとにかくみんな優しくて、本当に恵まれました。特に南米人はとても明るくて、朝から100%のテンションで “Yutaro!” って部屋に来るんですよ(笑)日本人だったら気を遣うところも気にしない国民性なので、自分がいくら憂鬱な気持ちでいても元気づけられるし、小さいことはどうでも良いかという気持ちになれました。本当に楽しい奴らでしたね。そういった点で精神的に救われたことも本当に多くて、最初のチームメイトが彼らじゃなかったら今はなかったかもしれないと思うくらいの存在です。」優しい仲間のサポートもあり、充実した短大生活を送った塚田。しかし最初はコミュニケーションにおいてつまずくことも多かったと振り返る。「渡米時はTOEFLも取って英語力は0ではなかったんですけど、オーランド空港にチームメイトが迎えにきてくれて道中1時間くらいの車内では本当に何を言っているのか分からなかったです。あっちもこっちが言っていることを理解していなかったですし、最終的にGoogle翻訳を使って話をされた時は少し屈辱でした。」チームメイトの親切であったが、当時は落ち込んだ記憶が残っているという。言語面はその後チームメイトとの交流を通して習得し、短大終了時には日常での不自由はなくなった。「チームメイトも多国籍だったのでお互いに英語が第一言語ではなくて、逆にコミュニケーションが取りやすかったと思います。」

ぶれない信念を持つ塚田はサッカーをしにきたという目的のもと日々過ごし、渡米後から着々と成長を遂げていく。「サッカーで実力が証明されちゃえば言葉の壁があっても簡単に友達もできるし、サッカーの自信はあったので最初からそこの心配はしていませんでした。」その言葉通り、塚田は短大1年目の開幕戦から出場し順調に活躍を重ねる。2年目のプレシーズンではベンチで過ごす期間もあり気持ちが不安定になった時もあったが、その後試合に出場した際にはハットトリックを達成。秋シーズンには大学の週間ベストイレブンにも選ばれ、その実力が認められた。



そこから少しずつNCAA Division1(D1)と呼ばれる米国で一番レベルが高い大学サッカーリーグからのオファーを受けるように。最終的に塚田は約15大学からオファーを受け、各大学の監督とミーティングをおこなった。「他の大学の監督は色々褒めてくれるんですけど、ウェストバージニア大学の監督は違いました。『この前の試合を見たけど悠太郎は守備をサボっていた』と正直に厳しいことを言ってきて、今後プロになるために長所は伸ばして、弱点は改善するサポートをするから是非うちに来てほしいと。大学で活躍することだけを目的とせず、その先のことまで考えて話してくれていたのが決め手でウェストバージニア大学を選びました。」ボールを繋ぐサッカーをしているというのがウェストバージニア大学のサッカーの第一印象だったという。しかしその中で得点を決められる選手が少なく、そこに自分が入れば上手くいくイメージを確信した塚田はウェストバージニア大学を新天地に選択した。「今振り返るとウェストバージニア大学を選んで本当に良かったと思います。もし違う選択をしていたら今の状況はなかったかと。」ウェストバージニア大学での生活は彼の留学において大きなターニングポイントとなる。しかしそこではさらに多くの試練が塚田を待ち受けていた。


短期大学で全米優勝を経験した塚田悠太郎選手

Comments


bottom of page